恩納ナビィ

2011年08月25日/ スタッフの独り言

ハイサイ! 夏休みもあと少しですが、お元気でしょうかニコニコ

今回も地味な話題をおひとつ。
【恩納(おんな)ナビィ】という琉球王朝時代の人物をご紹介したいと思います。
沖縄三大(女流)歌人に数えられている人物でございまして、当ホテルのある名護市のお隣、恩納村の出身の人物です。
恩納村役場や万座毛などに石碑がありまして、その功績を現在まで伝えられております。
古典の【恩納節】も、ナビィの作だと伝えられています。
恩納ナビィ
恩納松下に(うんなまちしたに)
 禁止の牌のたちゆす(ちぢひぬひぬたちゅし)
戀しのぶまでの(くいしのぶまでぃん)
 禁止やないさめ(ちじやねさみ)

【意味】
恩納番所(役所)前の松の木の下に、いろいろな禁止事項の立て札が立っているが、まさか恋することまで禁止したものはないでしょう!

時代背景を理解していないと【】な詩ですので、時代背景を説明しますと、尚敬王代(1713-1751)、男女の風俗取締りが厳しかった。
近年まで沖縄の風習に【毛遊び(もうあしび)】というのがありまして、夕刻から深夜に、野原や浜辺に若い男女が集まって、飲食をともにし、歌舞を中心に交流した集会のことですが、若い男女のこと、性的な関係にいたる事も珍しくなかったそうです。
そのような【風紀の乱れ】を、役人としては中国からの観光団(冊封史ご一行)に見せたくないという大きなお世話から、禁止令を出したわけです。
このときだけでなく、ちょくちょく禁止令が出されたみたいです。

その禁止令の札を見た恩納ナビィが、皮肉を込めて詠ったものだということですが、この詩が古典として残っているところがすごいところ、だって政府が出した禁止令に批判的な詩ですよ。
古典ということは政府のお偉いさんとかも耳にすることがあるということです。ゆるいというか、おおらかというか……

個人的に非常に印象に残っているナビィの詩がありますが、こちらも時代背景から。

ナビィの生きた時代、琉球王朝は税と労働力の確保を目的として、豊臣秀吉の政策と同じく、村人の移動(別地域への転居)を禁止していていました。
となると、恋愛も結婚も同じ村の男女となります。
ナビィには恩納岳の向こう側、金武(きん)に想い人がいたのでしょうか、以下の詩も残しています。

恩納岳あがた(うんなだきあがた)
 里の生まれ島(さとぬうまれじま)
森を押しぬけて(むいんうしぬけて)
 此方なさな(くがたなさな)

【意味】
恩納岳のあちら側(金武)は、里(恋人と訳すのが普通ですが、個人的には想い人と訳したい)が生まれた村。
山を押し払って、こちらに持ってこよう。

なんともパワフルでダイナミックな詩ではありませんか。

ナビィだけではなく沖縄各地に、歌碑がありますので、歌碑巡りというのも面白いとおもいます。

今回のおまけ動画は、そのまま【恩納節】です。

金城



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